2023年3月1日(水)

未だに思い出すと落ち込んで脱力するが、元恋人に別れを切り出されたとき、つらつらと並べられた私の気に入らないところの一つに「自信がないところ」があったのが、ずっと心の奥底で泥みたいに溜まっている。

私は思った。あなたが私の恋人なら、私に自信を持たせてくれる存在でいてほしかった。付き合っていた1年間、一言だって私を褒めなかったのに。私の自信になるようなことを一つだって言わなかった口で、自信持ちなよと、無責任なことを言った。

 

あなたは恋人じゃないか。恋人って、好き同士でいるのが前提じゃないのか。好きってことは、相手の何かしらを肯定することだって出来るはずじゃないか。どこかを好きだから付き合ってるんじゃないのか。でも、元恋人は「ネガティブで自分に自信がないところが好きになれない。自信を持ちなよ」と平気で言った。じゃあ、どこに自信を持てばいいのか教えてみせろよ。なんで私と付き合ってたの。どこが好きだったの?無いの?無いのか。

そうか、だから今振られているのか。私は当時そう思って、ああもう今更自分を改善してみせることなどできないのだろう、取り返しがつかないのだろうと悟って、でもどうにか許してもらえないかと縋りつきたい想いだった。「許してもらう」の時点で関係性はお察しな状態で、完全に上下関係が生まれていたし、私の意見を聞き入れて「もらう」ことが前提だった。私と彼は対等ではなかった。彼は私と対等でいたかったようだが、彼は自覚もなく私を見下していたように思う。

 

 

「言いたいことがあるなら何でも言ってよ」という彼の言葉を信じて「もっと彼女扱いしてほしい。いじられキャラなのは自覚しているけど、今までの友人関係と同じように酷い扱いを受けて笑いものにされるのは傷つく」と伝えたとき「お前のことなんか今更彼女扱いできない。友達が長すぎて今更変えられない」と言って拒否されたことも、きっと一生覚えていると思う。なんだ、私が意見を言っても聞き入れてもらえないんだ。それどころか、より傷つけられるだけなら意見なんか言わない方がマシじゃないか。当時の私はそう思った。だから、それ以降彼には何も言わなかった。すると、別れるとき「自分の思っていることをはっきり言ってくれないのもストレス」みたいなことを言われた。封殺したのは自分なのによくそんなことが言えたなと思った。

その元恋人は、付き合うとき「いいの?俺、自分のこと嫌いだよ」と言った。はじめは意味が分からなかった。自分のことを嫌いな人間と付き合うことの何が問題なのか分からなかったのだ。そうなると、私も自分のことが嫌いだが、あなたはそれでいいのか?と思ったが聞かなかった。というより、自分のことが嫌いなのはほぼすべての人間が前提として抱えているものだと思っていた。

長い付き合いの友人だったから分かるが、彼が自分を嫌いなわけがない。自分に自信満々な男だった。仕事も勉強も趣味も誰より優れていないと気が済まない人間で、実際、とてもよく出来る人だった。私は、そんな人間から「自分嫌い」のカミングアウトを受けた。

私は思った。「自分嫌いをナメるなよ!ファッションみたいに使ってんじゃねぇよ!」実際、私も自分嫌いをファッションとして使っている節があるのに。

本当に、彼は自分のことを嫌いなのかもしれない。だけど私は、彼の自分嫌いと私の自分嫌いを同じ種類のものとして扱われたくないと思った。とにかく私は「嘘かもしれないけど、自分嫌いと言うなら、私だけでも彼を肯定してあげなければ」と思った。よくよく考えたら、元恋人を肯定する人間なんかいくらでもいた。私が何かしてあげる必要もなかったのだ。

彼は、自分を肯定することに根拠を必要としない人間だった。私と違って、自分を嫌いでも自分に自信を持てる人間だった。だから無責任に「自信を持てば?」と言ったのだ。少なくとも彼は、そう言われたら「そうだね!わかった!」と二つ返事で自信を持てる人間で、他人も皆そうだと思っていたのだろう。

 

話は変わるが、私はとにかく考えごとが止まらない性格だ。こうして文章を書くのが好きなのも、散漫になった思考を整理するのに最適だからだ。今の仕事は8時間ずっとデスクに座って文字と向き合っているが、「文章の内容を読んで理解する」仕事ではないので、文字の表面だけを目でなぞって、脳を経由させないで誤字脱字を発見していく中、8時間ずっと考え事をしている。私は人の話を上の空で聞いていることが多い(元恋人にも「直せ」と指摘されていた悪癖だ)。

8時間ずっと、自分を否定している。否定したいわけではないが、思考していると行き着く結論がいつもそこになる。私は自分を肯定するために根拠を必要としているのに、どれだけ思考してもその根拠を見つけることができない。否定する根拠だけはたくさん出てくる。壊した蟻塚みたいに、黒くて小さくてうじゃうじゃしたネガティブがぶわっと溢れてそこらじゅうを走り回っている。

 

誰かと一緒にいたい、とよく思うようになった。誰かと一緒にいないと、生きていく理由がない。自分のために生きていこうとも思えない。家族のためを思うと「生きていたい」ではなく「死ねない」になってしまう。私は、死ねない理由ではなく生きたい理由がほしい。そうすればどれほど心が楽になるか。無意味で無価値で平坦な生活を、ただ機械のように繰り返す人生に意味を持たせて、早く楽になりたい。誰かにとっての特別になりたい。

それと同時に考える。その一緒にいてくれる誰かを「自分が楽に生きるため」に好きになり、「自分が楽に生きるため」に付き合わせるのだ。私の利己的な考えのせいで、誰かは利用される。可哀想だ。誰かを付き合わせるにしては、私はあまりにも不出来だと思う。怠惰で醜く、愚鈍で、粗暴で、根暗で、人を信用することができず、誰かに信用されることもない。そういう人間の自分勝手な考えのために、誰かが人生を台無しにされる。もっといい人がいたかもしれないのに、その可能性を壊され、私と付き合わされる。可哀想だ。

でもきっと、孤独に耐えられないんだろうな。だから、こんなことをごちゃごちゃ考えているくせに、結局誰かに助けを求めるんだろうな。一人になりたくないがために。

その誰かを騙し続けて生きていければいいのかもしれないが、醜い利己的感情がバレたとき私は何と言い訳するのだろう。馬鹿みたいに言葉を並べて縋りつくのだろうか。そうやってまた思い出したくない記憶を増やしていき、過去を振り返らないように、希望のない未来も考えないように、ずっと自分を否定するだけの思考の渦に飲まれながら、無意味で無価値で平坦な生活を、ただ繰り返すのだろうか。死ぬまで、約50年。

 

孤独は恐ろしい。それよりもっと恐ろしいのは、「お前といるより孤独の方がマシ」と言われることだ。私は孤独を恐れているが、はじめから孤独でいれば私は何にも傷つかずに済む。傷つかないし、誰も傷つけない。呆れられたり失望されたりすることもない。このまま孤独に守られて生きていこうか、そんな勇気があるだろうか。そんな風に思いながら栄養士協会の論文を目でなぞる。今日も長い8時間を過ごす。明日も明後日も来週も。

 

人間は、3日水を飲まなければ死ぬらしい。知っていたことだが、今改めてそう言われると「なんだ、意外と簡単なんだな」と思った。どうせ試してみたとて死への恐怖に屈して、1日目の夜か2日目の朝、台所の蛇口に齧りつくようにして、カルキ臭い水を無様に啜り、死にたくないと言って泣くのだろう。

 

そんなわけで、3月が始まりました。幸先の悪いスタートですね。