2021年10月16日(金)

 私は物づくりが好きだと思っていたが、私が実際に好きなのは「物体」そのものではないかと最近になって気付き始めた。

 幼少のころは絵を描くのが好きだったが、人に自慢できるほどの腕前には至れなかった。例えば友人と絵しりとりをすると「何が書いてあるかは分かる」程度の絵しか描くことができない。絵しりとりをするにあたっては、ある程度は描ける器用さなどいらない。絵が下手でないと面白さが生まれない。どっちつかずで宙ぶらりんな私の前に、のちにプロのイラストレーターとなる天才的画力の女子が現れ、自然と絵を描くことをやめた。当時の私は、自分の手で生み出した物体より、その物体に対する評価がほしかったのかもしれない。

 いつからか切り絵をするようになっても、クリエイターの集まる雑貨の即売会で天と地ほどの差を見せつけられてから、自分の生み出す物体のくだらなさに心底嫌気が差したりもした。評価うんぬんではなく純粋に楽しむことを目的として物作りをするようになったのは、社会に出てからかもしれない。私は本を書くようになった。空想が頭の中の容量を食うので、文字に起こして吐き出すと気持ちがよかった。

 何かを生み出すと満足する。物づくりの達成感は完成品を目の前にして一息ついたときに初めて心の底からわいてくる。本の達成感は、わざわざ印刷所に入稿して製本してもらって、家に届いて梱包を開けて、ページをパラパラと捲って真新しい紙のにおいを嗅いだ時こそ味わえる。私は物づくりが好きだと実感する。

 最近は既製品のペーパークラフトキットを購入し、自分で組み立ててフィギュアを作る。息を吐くだけで1ミリ程度のパーツが飛んで行って消える。木工用ボンドをつけ間違えると跡が残って汚く見える。ほんの少しの緊張感の中で作り上げたものは自分にとっての超大作とも言えた。今ではその超大作のペーパークラフトが9個も棚に並んでいる。私は物づくりが好きなのだ。

 テレビでもネットでも、物体を見ると作ってみたいと思う。完成した品は別にいらないから、作る過程だけでも体験したいと思う。よく家族や友人や恋人のお祝いにメッセージカードを作って渡す。私はただ切り絵がしたいだけで、完成品を相手に贈ったあと、それが大事にとっておかれるのか、それともなくされるのか、はたまた捨てられるのか、そこには興味がなかった。だから本当にごく最近まで、私は物づくりだけが好きなのだと思っていた。

 

 だがどうだろう。自分の部屋を見渡す限り、完成した品は別にいらないと思う人間の部屋ではない。

 

 作ったペーパークラフトは、埃をかぶらないようにわざわざ透明なプラスチックケースにしまっている。書いた本は12冊にも及ぶが、全て後生大事に本棚に並べられている。私はそれを眺めるたびに満足する。古い友人の実家に遊びに行くたび、趣のある勉強机に私が贈った桜のメッセージカードが飾られているのを見てほくそえんだりする。自分の生み出したものにいらないものなど何一つとして無いのかもしれない。私は、物を作った過程で楽しんだ記憶を、物体そのものの中に見てまた楽しんでいるのだろうか。

 

 最近は普通にフィギュアがほしくて買い漁り、細部まで舐めるように見つくして、これが完成されるまでの過程を想像する。全部機械で作られた大量生産品かもしれないが、その一つ一つのパーツを手で作ったときのことを考えると胸が躍る。フィギュアなんて特に、部屋にあってもなんの役にも立たず、強めの地震が来れば倒れたり落ちたりして、頭や足がもげるかもしれない。仕事を手伝ってくれるわけでもないし、いい香りがしたりおしゃれな音楽が聞こえたりするわけでもない。ただそこにいるだけのものなのに手に入れて傍に置いておきたいと思う。私は物体が好きだ。私が気に入った物体を見るのが好きだ。これは誰もが当たり前のように持つ感情かもしれないが、私自身がここに気付いたのはとても意味のあることで、ここに至った過程も、とても意味のあるものだったと思いたい。

 長くなったが、何が言いたいかというと、11月から予約が開始するウルキオラの2万のフィギュア買います。ありがとうございました。